今日は66回目の終戦記念日ということもあり、すこし戦争について考えてみたい。
ここでいう戦争とは、昭和20年(1945年)8月15日に終わった日中戦争と太平洋戦争を併せた戦争である。世界的には第二次世界大戦の太平洋戦域と呼ばれ、戦時中の日本では大東亜戦争と呼ばれていた。
例えば第二次世界大戦で日本やドイツが勝利する可能性を考えたことは多くの人があるだろう。なかなか面白い思考実験だが、ヨーロッパ戦域と比べてアジア・太平洋戦域は何か重たいものを感じる。
自分の国が当事者であり、民族的優越感を背景に飽くなき領土拡張を繰り返す軍国主義がこの地域に住む人々、そして日本人自身を不幸にしたという歴史があるからだ。
その大きな失敗は当然最大の教訓として受け継がれているわけだが、その不幸をどうにか起こさずにすむ道は無かったのか、そういった観点で特に日中戦争から太平洋戦争の期間をもう一度見直して教訓を挙げてみたい。尚、この考察は日本の勝利を目標としている部分もあるが、それは日本が自らの手で軍国主義を捨てるという選択肢が有り得るという前提に立っているからである。
では始めにアメリカと戦うという行為について考えてみよう。当時でも世界最大の軍事力を持った超大国。このアメリカに戦いを挑んだ時点で、様々な歴史的分岐点を史実と違うパターンでいろいろと辿ってみても結局は日本は勝つことができない。個々の局面、例えば太平洋戦線の転回点と言われるミッドウェー海戦で日本が勝利したとしても、アメリカは失った戦力を数ヵ月後には再度投入できる。総力戦とはそういうもので、相手の生産拠点を潰すか資源の供給を止めない限り戦争自体には勝利できない。圧倒的な国力差もさることながら、日本にはアメリカ本土の生産拠点を破壊したり占領する力が無いという時点で残念ながら戦争に勝利できる可能性が無いということだ。つまり、アメリカを相手にした時点で詰んでしまうので、いろいろと考えてみても徒労と化す。
したがって、一つめの教訓は「自国と相手国の力を冷静に比較し判断しろ」である。
当時の日本の指導者層はこうした現状がわからなかったのだろうか? 実は概ね解っていた。しかし現状を吐露して「無理です、できません」ということを誰も言えなかった。なぜか? それまでさんざん威勢のいいことを言ってきた軍上層部は実際にはアメリカとの戦争は無理だと思っていても、自分がそれを言い出して責任を負うことを恐れたのだ。その結果、現実的で論理的な発言は弱気であると捉えられ、大和魂に代表される精神力を過大に評価することによって自分たちの力を盛って話すことが常になっていく。そうした体質から敵戦力の過小評価、自軍戦果の水増し、損害の隠蔽なども起こり、正確な情報を基にして議論するということが出来なくなってしまった。
二つめの教訓は「虚飾のない誠実な発言ができる健全な組織環境を構築しろ」である。
それならアメリカと敵対しないシナリオを構築するべく少し時間を巻き戻して日中戦争(太平洋戦争以前には支那事変、もしくは日華事変と呼ばれていた)のうちに何か手を打てないか考えてみるとしよう。日本とアメリカが敵対した理由は簡単に言ってしまえば蒋介石の中華民国(国民政府)を認めるか、認めないかということに集約される。昭和12年(1937年)7月に始まった日中戦争はその年の終わりまでに日本軍に有利な形で膠着状態に入り、翌昭和13年の1月、日本側から「以後、国民政府を相手とせず」という声明を出して蒋介石との交渉を一方的に打ち切ってしまった。史実上この時が和平できる最大のチャンスであり、この後戦況は泥沼と化してゆく。そういった意味で交渉打切りを決定した当時の近衛文麿首相の責任は重大だ。
また、終戦直前の昭和20年(1945年)7月26日に連合国からポツダム宣言が出された訳だが、日本は躊躇し、一度は黙殺する。その後原爆投下、ソ連の参戦を経て8月14日に連合国に受諾を通告している。これにしても7月26日に即日受諾する用意があると通告していれば広島、長崎、満州、樺太などで多数の命が助けられたはずだ。ソ連の侵攻を止められたかどうかは正直微妙だが、少なくとも原爆投下は避けられただろう。
三つめの教訓は「戦争は止められるチャンスがある時に必ず止めろ」である。
それでは、近衛声明を出してから真珠湾攻撃するまでほぼ4年間もあったのに何か打つ手は無かったのだろうか?蒋介石は中国奥地の重慶に篭ってしまい、決定的な打撃を与えられない。そんな中で日本は傀儡政府を樹立し、アメリカは非公式に(とは言え公然と)重慶政府に援助を始める。時が経つにつれて日本はあせりと厭戦感を募らせていく。当時の日本の指導者たちもさすがにアメリカと完全に対立するという構図は避けたかったのだろう。何度か水面下で重慶政府との和平交渉が試みられたが結局実を結ぶことはなかった。交渉条件には日本軍の少なくとも部分的な撤兵が必要だが、事変が長期化したことにより戦死者が増え、その重みによって、大きなものを得なければならない、ただでは帰れないという感情が生まれてしまったのだ。これによって戦争目的が膺徴(ようちょう・こらしめるの意)から侵略に変わってしまった。
ちなみに日清戦争は1年4ヶ月、日露戦争は1年7ヶ月、シベリア出兵は4年2ヶ月、満州事変は5ヶ月という期間戦っている。長期に渡ったシベリア出兵は駐兵2年目を迎える頃には戦争目的の曖昧さもあり、兵士達の軍規は乱れ厭戦感が漂っていた。しかし軍上層部は何かを得なければこの戦いを終われないという思いから政府が撤退協定を結ぶ前夜に総攻撃をかけて協定を潰してしまう。こうして更に2年近く極寒のシベリアで赤軍ゲリラと血で血を洗う泥沼の戦いを続け、何も得るものも無く撤退するのである。
四つめの教訓「戦争が長期にわたると引くに引けなくなる」である。
また、パートナーが適切だったのかという問題がある。アメリカは日本が中国から撤退しない上にイギリスと戦争中のドイツと同盟を組んだことによって完全に敵意を持ってしまった。では日本にとって日独伊三国同盟(昭和15年)はアメリカ・イギリスと完全に敵対しても構わないほど価値のある同盟だっただろうか? 戦略的に見て日本が陸軍国であるドイツと組んでメリットが有る状況はソ連に対して両国が同時に攻めるか、ソ連を同盟に引き込んで資源と技術と人員をシベリア鉄道で交流出来るようにするしかなかった。したがってドイツがソ連に侵攻し、日本が侵攻しなかった時点で同盟のメリットは消滅したのである。このドイツによるソ連侵攻は事前に日本との話し合い無く始められた為に、ソ連を同盟に引き込む方向で考えていた日本は完全に裏切られる形になってしまった。ヒトラーはこのように信用できない人間であり、日本はこの時点で同盟を解消するべきだったのだがなぜかそれをしなかった。
そもそもドイツと日本は反共産主義の立場から昭和11年に日独防共協定を結んでいたが、昭和12年の日中戦争勃発時には蒋介石の国民政府軍にドイツが軍事顧問、物資を送って加担したり、昭和14年に防共協定違反である独ソ不可侵条約を、これまた日本に事前に何の連絡も無く締結したりとメチャクチャなことをやっている。こんな信用のならない相手と日本はなぜまた同盟したのか? 当時ドイツは周辺国を次々に撃破しヨーロッパを支配する勢いだった。日本はただ節操無く勝ち馬に乗る為に同盟をしたのである。その時のスローガンは「バスに乗り遅れるな」。そんなバスは乗り遅れればよかったのだ。ドイツは日本との同盟が有ろうが無かろうがソ連に突っ込んで自滅したのだから。
五つめの教訓「信用できる相手と同盟を組め、裏切りがあったなら即破棄しろ」である。
また少し時間を巻き戻して日中戦争(支那事変)がどのようにして始まったのかを見てみよう。これは従来「盧溝橋事件」といわれる日本軍演習地に何者かが小銃を撃ちこんだ事件によって始まったとされている。しかし実質には第二次上海事変に代表される国民政府軍(以後国府軍)の日本への開戦を決意した挑発が原因であり、当初の出兵は在留邦人の保護の観点からも必要な行為だった。国際社会の受け取り方も同様で、これは然るべき行動と捉えられている。上海での戦闘に勝利した日本軍は当初の目的を達したわけだが、その後敗走する国府軍を追って設定された作戦地域を現地の独断で越えてしまう。ドイツを仲介とした和平交渉が始まっている中でこういった現場の独断専行は交渉の前提条件を変えてしまう行為であり、交渉自体を難しくしてしまった。結局、中央は現場の独断専行を事後承諾してしまいお咎めなし。後に和平交渉が行き詰まり、前出の近衛声明へと繋がるのである。
六つめの教訓は「出先機関の独断専行には罰を与えなければならない」である。
軍紀が厳しいイメージのある日本軍がなぜ中央の命令に背いて独断専行したのか? それは悪しき前例があるからだ。昭和6年(1931年)に起きた満州事変である。南満州鉄道の線路が爆破されたことによって始まったこの事変は最終的に満州国の建国に繋がるのだが、これは関東軍の石原莞爾、板垣征四郎等による独断の謀略であり、政府や中央の命令無しに行なわれた。日本の兵隊は天皇陛下から預かった兵とされており、中央(天皇)の命令無しに勝手に動かすのは重罪とされていたが、満州事変に関してはまったくお咎めなしどころか石原や板垣は昇進さえしている。これが出先機関の暴走を意味する「関東軍」の所以だが、中央は線路の爆破自体も関東軍の自作自演であることを把握していながら満州国を承認してしまう。これを見た軍人達はどう思ったか?「手柄を立てちまえばこっちのものだ!」であろう。以後、このメンタリティが特に陸軍の中堅幹部に蔓延り、中央の制御が効かない体質を生み出したのである。
また、当時のマスコミの中心である新聞は満州事変からこぞって軍に好意的な報道をした。言論統制があったからではない。売り上げを伸ばす為に単純に民衆の感情(当時一般には中国人が線路を爆破したとされていた)に迎合した結果である。それが後々対米開戦へ民意を扇動することにも繋がった。
七つめの教訓「マスコミのナショナリズム扇動に気をつけろ」である。
自国の歴史、文化、国民気質に誇りを持つのが健全な愛国心だとすれば、他国から様々なものを不当に奪うことに罪悪を感じなくなるのがナショナリズムのダークサイドだと言える。もちろん当時は帝国主義が世界のルールであったわけだが、満州事変などはたとえ線路の爆破が中国人の仕業だとしても、その後の経過は明らかに何らかの事前準備がなければできないほど周到に満州国建国まで進んでいる。ジャーナリズムがまともに機能していれば事実追及や批判が有って然るべきだが、マスコミは偏狭なナショナリズムを国民に植え付けるだけの装置と化した。
以上七つの教訓を挙げたが、それぞれのターニングポイントにおいて史実のごとく事が推移した背景にはやはり抜きがたい民族的優越感と領土拡張主義があったことは明白であり、それがある限り外交での和平や冷静な国際情勢及び戦力の分析は不可能だっただろう。したがって軍国主義によって戦争マシーンと化した大日本帝国が自ら戦争を止められず、最終的に世界最強国にぶち当たって果てたというのは当然の結果なのかもしれない。今を生きる我々はこの教訓をどう生かすか問われている。